津久井やまゆり園事件から10年、犯人は、「意思疎通ができない人間は生きている意味がない。重度障害者は不幸しか作らない。」と言ったという。犯人自身は、他者との「意思疎通」ができていたのだろうか。「意思」とは、その人自身の考えや意向のことであるから、当然様々な違いが生ずる。その違いを正しく理解しようとするプロセスが「意思疎通」である。それは双方向でなければならない。障害があろうがなかろうが、人はそれぞれのやり方で、何らかの意思表示をしながら生きている。どんなに微かであろうが、喜怒哀楽を、自らの想いを表現しているはずである。それに気づくかどうかが「意思疎通」であり、相手を正しく理解するということではないか。
社会的なコミュニケーションが苦手な自閉症児・者や発達障害児・者は、定型発達の範囲だけが社会を形成している基準なのだという思い込みによって、時に理解不能の烙印を押されてしまいがちである。そこには、真の「意思疎通」は成立せず、「共生社会」の実現などは有り得ない。この世に生きている一人一人の存在が、この世を形成しているのである。経済原理に囚われた共助の考え方では、障害者は役に立たないもの、厄介者でしかない。定型発達の枠が求める「普通」ではないかもしれないが、障害のある人が行うパフォーマンスの素晴らしさや、その存在あそのものが発する雰囲気がひとびとを魅了することも事実である。
浅薄な考えによって奪われた尊い命に対して、改めて哀悼の意を捧げる。
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- 会長コラム (令和8年8月更新)